
大久保はエゴイストだというやつは日本のサッカーのことが何もわかっていない。
それが例えオシムだとしてもだ。

日本は長らく「シュートおゆずりします病」に支配されてきた。(トルシェの時代やそれ以前からずっと)
これは、パス練習ばかりを重視しているとシュートを打つ責任を回避したくなる心理による。
パスを積み上げて前線まで運んできたボールを
シュートして外したときの非難と失望の責を負いたくないからである。
(ストライカーがシュートを打つことを怖がるというのは不思議に思われるかもしれないし、本人にも自覚はないかもしれない。だが、重要な試合であればあるほど、おそろしいまでのプレッシャーを受けているものだ。深層心理では、まちがいなくシュートが怖いのである)
外国人の一流ストライカーならば、ここで打つという場面でほとんどの場合、日本人プレーヤーは打たなかった。
(遠藤がひとりで左サイドを駆け上がったときもチャンスだった)
プレーの優先順位が1、パス 2、シュートなのである。
これはフィールドの全域において優先順位を逆にせねばならない。
そうした悪習を打破するプレイが大久保のシュートだった。
大久保が責められるべきは、へなちょこシュートしか打てなかったことである。
たとえゴールキーパーの予想の範囲内のシュートでも、容易には受けとめることの出来ない強烈なシュートを放つべきであった。
(まして動きの読めない公式球である。何が起こるかわからない)
このことは他のプレーヤーにも言えることで、ほとんどが体重の乗らない「腰抜けシュート」であった。
(しかも枠に入ったのはわずか3本)
30メートル級のロングシュートは、たんに全力で打ちましたというだけのエクスキューズである。
抑制が利かず、ゴールの上を通り過ぎるだけだ。
よって、ゴール付近での緊迫した場面でのシュート練習をもっと行なうべきである。
もはやアイコンタクトなどしている余裕はそのゾーンではないはずである。
ゴール前で攻め手を考えこんでいるようでは準備に欠ける。
「パターン」を(数種類)作り、全員でパターンを共有しイメージトレーニングし、考えることなく忠実に実行すればよいだけの状態にするしかない。
バリエーションは自然と生まれると思う。やろうと思っても二度と同じプレーは出来ないものだから。
選手同士の話し合いを増やすべきである。
個人の孤立が根深い。
闘莉王は多くの危機を防いだ。
スーパーファインセーブだが、全員で守っているだけでは試合には勝てない。
サッカーのように点数の入らないスポーツでは、1点取れば勝ったも同然だ。
相手が勝つためには2点を取らなければならなくなる。
デンマーク戦では、1点取れば予選通過の確率は日本にぐんと近づく。
消極的な戦法で自陣に押し込まれると失点につながりやすい。
カメルーン戦でボールキャリアとずるずるとにらめっこしたままラインを下げてしまう3番のディフェンス。
あれは最悪のディフェンスだった。
日本の一流ディフェンスプレーヤーでも相手にボールをさし上げてしまうだけのクリアしか出来ないほど余裕がない。
理由のひとつはビビっているためだ。
中村はバックパスをするために投入されたのかと錯覚してしまう出来だった。
松井があとふたり欲しい。
本田はふたりの相手プレーヤーを引きつけておくことが出来る。
おとりとして機能させるべきである。
全般的に運動量とフォローが足りない。
ボールを持ったらパス道を探す前に全力で走るべきである。
(突進力がおどろくほど欠けている)
高速で移動することがチェックを受けない最善の方法だからだ。
キャリアが苦し紛れに出すボールをフォロアは思いやりをもって迎えに行くべきだ。
相手のレベルが高ければ、パスは出せるところにしか出せないのだから。
「日本には勝利を手にするとの執念や勇気、創造力が足りなかった」ブラジル民放テレビ・グロボ
「“ウルトラ・ネガティブ”な日本は敗戦にふさわしい」英サンデー・ミラー
願わくば、以上のことがすべてデンマーク戦後には、たわごとになりますように。
ところでヤークトタイガーはどうなったのでしょう??
それが例えオシムだとしてもだ。

日本は長らく「シュートおゆずりします病」に支配されてきた。(トルシェの時代やそれ以前からずっと)
これは、パス練習ばかりを重視しているとシュートを打つ責任を回避したくなる心理による。
パスを積み上げて前線まで運んできたボールを
シュートして外したときの非難と失望の責を負いたくないからである。
(ストライカーがシュートを打つことを怖がるというのは不思議に思われるかもしれないし、本人にも自覚はないかもしれない。だが、重要な試合であればあるほど、おそろしいまでのプレッシャーを受けているものだ。深層心理では、まちがいなくシュートが怖いのである)
外国人の一流ストライカーならば、ここで打つという場面でほとんどの場合、日本人プレーヤーは打たなかった。
(遠藤がひとりで左サイドを駆け上がったときもチャンスだった)
プレーの優先順位が1、パス 2、シュートなのである。
これはフィールドの全域において優先順位を逆にせねばならない。
そうした悪習を打破するプレイが大久保のシュートだった。
大久保が責められるべきは、へなちょこシュートしか打てなかったことである。
たとえゴールキーパーの予想の範囲内のシュートでも、容易には受けとめることの出来ない強烈なシュートを放つべきであった。
(まして動きの読めない公式球である。何が起こるかわからない)
このことは他のプレーヤーにも言えることで、ほとんどが体重の乗らない「腰抜けシュート」であった。
(しかも枠に入ったのはわずか3本)
30メートル級のロングシュートは、たんに全力で打ちましたというだけのエクスキューズである。
抑制が利かず、ゴールの上を通り過ぎるだけだ。
よって、ゴール付近での緊迫した場面でのシュート練習をもっと行なうべきである。
もはやアイコンタクトなどしている余裕はそのゾーンではないはずである。
ゴール前で攻め手を考えこんでいるようでは準備に欠ける。
「パターン」を(数種類)作り、全員でパターンを共有しイメージトレーニングし、考えることなく忠実に実行すればよいだけの状態にするしかない。
バリエーションは自然と生まれると思う。やろうと思っても二度と同じプレーは出来ないものだから。
選手同士の話し合いを増やすべきである。
個人の孤立が根深い。
闘莉王は多くの危機を防いだ。
スーパーファインセーブだが、全員で守っているだけでは試合には勝てない。
サッカーのように点数の入らないスポーツでは、1点取れば勝ったも同然だ。
相手が勝つためには2点を取らなければならなくなる。
デンマーク戦では、1点取れば予選通過の確率は日本にぐんと近づく。
消極的な戦法で自陣に押し込まれると失点につながりやすい。
カメルーン戦でボールキャリアとずるずるとにらめっこしたままラインを下げてしまう3番のディフェンス。
あれは最悪のディフェンスだった。
日本の一流ディフェンスプレーヤーでも相手にボールをさし上げてしまうだけのクリアしか出来ないほど余裕がない。
理由のひとつはビビっているためだ。
中村はバックパスをするために投入されたのかと錯覚してしまう出来だった。
松井があとふたり欲しい。
本田はふたりの相手プレーヤーを引きつけておくことが出来る。
おとりとして機能させるべきである。
全般的に運動量とフォローが足りない。
ボールを持ったらパス道を探す前に全力で走るべきである。
(突進力がおどろくほど欠けている)
高速で移動することがチェックを受けない最善の方法だからだ。
キャリアが苦し紛れに出すボールをフォロアは思いやりをもって迎えに行くべきだ。
相手のレベルが高ければ、パスは出せるところにしか出せないのだから。
「日本には勝利を手にするとの執念や勇気、創造力が足りなかった」ブラジル民放テレビ・グロボ
「“ウルトラ・ネガティブ”な日本は敗戦にふさわしい」英サンデー・ミラー
願わくば、以上のことがすべてデンマーク戦後には、たわごとになりますように。
ところでヤークトタイガーはどうなったのでしょう??
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テーマ:模型・プラモデル・フィギュア製作日記 - ジャンル:趣味・実用

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